Wakamats イベント「市民が考える脳死・臓器移植」の成果・資料公開



「脳死・臓器移植」を考えた市民パネルの活動記録 −専門家との対話から市民の提案へ−

2月26日市民パネル「脳死と臓器移植」レジメ

大久保通方

私は、20年前に妹から提供を受け腎臓移植を受けました。現在も全く健康で、100%社会復帰を果たしています。仕事(商業写真家)のかたわら全国規模の移植者の団体の理事長をしています。このような活動をほぼ19年間行っています。今回は移植者の立場から市民パネル「脳死と臓器移植」について簡単に意見を述べさせていただきます。

脳死に関してですが、死の判定は医師のみが行える行為であり、これは諸外国においてもまた我が国においても医学、科学的には「人の死」として認められています。一部に脳死は臓器移植のためにあるといった考え方もありますが、脳死を「人の死」としない場合は、何を持って「人の死」とするか医学的判定することは非常に難しくなるでしょう。今までの三兆候死でも「瞳孔の拡散」を見ることによって脳の機能停止を判定していたわけで、脳死よりまだ脳の状態は良く、その意味では三兆候死は脳死に至る過程と判断するのが適切だと思います。

いま脳死判定や脳死が人の死かどうかを議論するつもりはありません。医学的、科学的な死と宗教的、哲学的、社会的死とは違うでしょう。科学的に死亡してもその遺体が腐り果ててしまって初めて死とする民族もあります。宗教的、哲学的、社会的な死の定義を論じると個人個人の意見の違いを埋めることは不可能です。

現実に脳死を「人の死」とし臓器を提供してもいいと思っている人もいますし、また臓器の提供を受けたいと願う患者がいます。私は、この二つの意思を生かす仕組みを早急に整備すべきだと思っています。移植医療は、臓器を提供したい意思、したくない意思、臓器提供を受けたい意思、受けたくない意思、この四つの意思(権利)の尊重が基本です。

移植者の術後について誤解が多くありますが、他の先生がお示しになったように全ての臓器において生存率は手術後の方が上です。心臓移植などは、現在日本臓器移植ネットワークに登録されている方の半数近くが人工心臓を装着しています。これは5mの世界、すなわち冷蔵庫ぐらいある装置から5mのパイプで繋がれているのです。腎臓の場合は、週3回1回4時間の血液透析をしなければなりません。肝臓や肺の場合も待機患者として登録されている人の日常生活は著しく制限を受けています。移植後は、免疫抑制剤を一生飲み続けなければなりませんが、その量も毎年減少しますし、中には免疫寛容が起こり薬を飲まなくて良くなる人もいます。薬による合併症もありますが、それは術前の症状や常に死と向かい合わせの生活に比べれば、はるかに小さなことです。医療ですから100%ということはありませんが、移植者のほぼ90%が社会復帰し、3分の2は一般の人たちとほとんど変わらない日常生活を送っています。

私は、移植医療が未来永劫続く医療だとは思っていません。再生医療や治療医学が進歩すれば、必要がなくなるでしょう。日本の国民が、移植医療は不要だというならば、それはそれで仕方がありません。しかし今移植でしか救命できない患者がいて、死後に臓器を提供してもいいという人がいます。それならば四つの権利を守りながら、できる限り一人でも多くの人を救うことを可能とする制度、仕組みを整備することが必要だと思います。