Wakamats イベント「市民が考える脳死・臓器移植」の成果・資料公開



「脳死・臓器移植」を考えた市民パネルの活動記録 −専門家との対話から市民の提案へ−

「鍵となる質問」への回答   2005年2月26日

澤井 繁男

私は、血液透析(27歳)ー献腎による移植(34歳)ー再血液透析(44歳)ー腹膜透析(51歳)と生きてきた者として、ご「質問」のお答えするまえに、ここに医学と医療の混合が見られるので、指摘しておきたいと思います。脳死は医学の分野ですが、移植は医療の領域であって、この二つを安易に結びつけている点に、問題があるでしょう。医学が臨床の場におりてきて活用されるかどうかは、それはその地域や国の文化環境によってさまざまな変化をみせているとおもわれます。つまり、医学という自然科学の一分野の実践行為がすぐさま医療とはならないわけです。ですから、脳死という概念が、いまだ科学的真理として是認されているかどうかさえ確定的ではない現在の日本文化の中では、移植医療と一緒に論ずるのは大変危険だと考えます。たとえば、「脳の死」と「脳死」と「脳死判定」は異なるでしょうし、臓器移植医療は、脳死判定という実践行為によって実行されるものだという理解です。

(1)への回答:上記で述べた内容に回答の一部が含まれているとおもわれますが、人の生死に関る医療ですから、提出された枠組みで考察するのが当然だと愚考します。ただ、視点として付加するとしたら、健常者と身体障害者という観点も添えてほしいものです。私はよく「病人」といわれますが、目下、病を患っていないので、「健常者ではないが健康だ」と応えますが、医療従事者の中でも、この視座に立って把握できる方がどれくらいいるかいつも疑問に感じています。

(2)への回答:脳死・臓器移植がいかにあるべきかは、まず、こうした内容を議論する場に必ず、体験者も加えて行われるべきである、ということで、その点、今回のお招きは嬉しく感謝しています。つまり、私は「専門家」ではないのですが、専門家といわれる方々の意見は、意見としての意見であって、解釈の域を出ていない場合が散見されるからです。私は臓器移植の恩恵を受けていますが、今後、移植は種々の理由からしないつもりです。ただし臓器の提供は惜しみません。

*ご紹介があると思いますが、私には、単なる闘病記ではなくて身体観や死生観まで掘り下げた、ノンフィクション『いのちの水際(みぎわ)を生きる』(人文書院、1992)、『臓器移植体験者の立場から』(中央公論新社、2000)があり、フィクション(短編集)として、『実生(みしょう)の芽』(白地(はくじ)社、2000)、『鮮血』(未知(みち)谷(たに)、2004)があります。体験者の体感と日常をまず、ドキュメントと描写の世界で知っていただきたいと希望します。